小さなパンの博物館

横浜とパンの歴史

開港から現代製パンへ ― 異文化が交差した街の記憶 1859
Chapter 01

開港とみなと横浜

1800年代に入ると、日本の港には諸外国の船が頻繁に来航するようになった。幕府ははじめ強硬な鎖国政策をとっていたが、アヘン戦争で清国がイギリスに屈したことを知ると、強硬な姿勢を維持することが危険であると判断し、外国に対して柔軟な姿勢をとらざるを得なくなっていった。

1853年(嘉永6年)、浦賀にペリーの率いる黒船が来航し、幕府に強く開国を求めてきた。圧倒的な武力を背景に開国を迫るアメリカに対し、ついに幕府は長きにわたった鎖国に幕を下ろし、開国に踏み切った。

ペリー来航の翌年、幕府は日米和親条約を結ぶ。1855年には神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)の開港を約した日米修好通商条約を締結。ここに異文化交流の玄関口として、みなと横浜が誕生する。

居留地遠景
居留地遠景。山手から見た居留地の風景。開港後の横浜は急速に国際都市へと変貌を遂げていった。
ペリー提督像
ペリー提督像。東インド艦隊指令長官ペリーの日本開国の成功は、日本人の生活に大きな影響を与えた。
Chapter 02

居留地と異人ベーカリー

開港以降、外国人の生活様式が広まり洋食への関心も高まりはじめた。主食であるパンは欠くことのできないものであったが、当初、外国人は自らの手で作っていた。そこで次々と異人ベーカリーが誕生し、1865年(慶応元年)に横浜居留地に住んでいたロバート・クラークは横浜ベーカリーを開業。白パン、黒パン、ビスケット、バンズ、ラスクなどを製造・販売していた。

横浜ベーカリー・クラークの広告 1865年
横浜ベーカリー・クラークの広告(1865年)。埋立地135番地に店を構えたクラークは、この広告に高品質と客の希望の品をすぐ届けるということを記している。

居留地135番地に店を構えたクラークの広告には、「最高品質のパンとビスケットを常備し、顧客の希望に即座に応える」という自信がにじんでいる。

居留地の町並み
居留地の町並み。居留地のメインストリート。様々な商館が立ち並び、多くの外国人が生活していた。
デンテイシ・ベーカリー
デンテイシ・ベーカリー。前田橋から見た居留地の風景。角にデンテイシという文字がはっきりと見える。

クラーク以前の横浜異人ベーカリー

― 安政6年(1859)横浜開港 ―

文久元年(1861)
W.グッドマン(Goodman)がパンを売り出す。同年11月、グッドマン宅は日本人町の火事により類焼。
文久2年(1862)
グッドマン、ヨーロッパ風パン屋の触れ込みで新規開店。「ファミリーベーカリー」はゴールデンゲート・レストランの近くに移転。居留地116番地にH.ボルドウイン会社がベーカリーを始める。
元治1年(1864)
居留地126番地にジョンダパスが「ソルフェリーノ・ベーカリー」を開業。
慶応元年(1865)
R.クラーク「ヨコハマ・ベーカリー」を135番地に開業。 70番地で朝食・昼食のための巻きパン(Rollbread)を売り出す。
慶応2年(1866)
クラーク、「横浜神奈川ベーカリー」創業。
明治4年(1871)
既にパルメス、レンクロフォード、デンティスといったパン屋が存在。
Chapter 03

横浜のパンの発達

開港当時、パンは外国人だけのものであったが、明治になると外国の領事館・商館・私塾などの下働きをしていた日本人がパン技術を身に付け独立するようになり、外国人向けにパンを作るようになった。

クラークの帰国により、居留地内のパン製造の中心であった横浜ベーカリーが打木彦太郎に譲られると、横浜の邦人パン屋の信用はあがり、居留地・外国船舶だけでなく東京の高級ホテルなどに出荷するようになり、横浜は、パンの一大生産地となった。

中川屋嘉兵衛の広告
中川屋嘉兵衛の広告。パンの広告第一号。外国人向けの商売に目を付けた嘉兵衛はパンにとどまらず様々な商売を行なった。
パン屋出火の記事
パン屋出火の記事。パン屋出火の珍しい記事。防火の皮肉な注意が書かれている。
宮田屋・内海角蔵
宮田屋・内海角蔵。打木らと横浜のパンを支えてきた功労者で、横浜邦人パン屋の先駆者と言われている。
打木彦太郎
打木彦太郎。幼い頃よりクラークの横浜ベーカリーに弟子入りし、25才で店を譲られ宇千喜商店を開業した。
横浜ベーカリー・宇千喜商店の広告
横浜ベーカリー・宇千喜商店の広告。開業当時は客の殆どが外国人であったため外国人向けの広告を出している。
グランドホテル
グランドホテル。明治3年に開業し横浜を代表するホテルに成長。横浜ベーカリーがパン納入していた。
Chapter 04

横浜のパン、その全盛と試練

明治半ばになると、パンは一般の人々にも徐々に広まり、一方兵糧としても重要な位置を占めるようになっていた。明治27年の日清戦争、明治37年の日露戦争と相次ぐ戦争に、横浜のパン屋は軍御用商人として乾パンを製造し、多大な利益を得るようになった。

また、大正7年に米騒動が起こると、群衆が殺到するほどパンが売れ、パン食の奨励などによってパン食は普及した。しかし、大正12年、関東大震災が起こると横浜の町は全壊し、横浜のパンも一時、壊滅状態に陥った。

帝国ホテル
帝国ホテル。明治政府が威信をかけて建立。最高のものを揃えるため、パンは横浜から届けられた。
盛月堂
盛月堂。打木、冨田屋などと共に軍用のパンを作り、横浜のパン屋を支えてきた。店の前に軍人の姿が見える。
震災直後の横浜
震災直後の横浜。この震災によって町は全壊し、多くの外国人商人たちは神戸に移ってしまい、横浜は以前の活気を一時失ってしまった。

大正12年(1923年)の関東大震災は、横浜のパン産業に壊滅的な打撃を与えた。多くの店舗・工場が焼失し、外国人商人の多くが神戸へと移っていった。しかし、横浜のパン職人たちはその後、終戦の復興期を迎え次々と復活を果たしていく。

Chapter 05

パン製造と職人、そしてパン窯

開港当時の横浜において、居留地の外国人、駐留の軍隊、ホテル等に品質の良いパンを相当量に供給する必要があった。そのために、熟練した技術で専門的にパンを製造する職人とそれを売るパン屋が現れた。

当時のパンづくりは、パン種から焼き上げまで、すべてパン屋の長年の経験とカンに頼るものであった。工程を大きく分けると、①パン種をつくる工程 ②小麦粉・パン種・水等を練って生地をつくる工程 ③発酵・ガス抜き・焙炉の工程 ④分割・丸目・整形・型入れ等の工程 ⑤窯焼き等の工程 — となっていた。
西洋万物図・パンを焼く図 万延元年
西洋万物図・パンを焼く図(万延元年)。左の窯は、パンを焼くために薪を焚いて窯を暖めている。持っている棒は火かき棒。

パン窯の変遷

開港当時の窯は直接窯内で薪を燃やし、灰をかき出してからパンを焼くものであった。需要が増えるとともに「焚き込み式」へ、昭和にはコークス燃料の「ドイツ窯」が普及。戦後は徐々にガス窯・電気窯へと移り変わり、石窯・ドイツ窯は姿を消していった。

現在使われている石窯 静岡県沼津市
現在使われている石窯(静岡県沼津市)。伝統的な石窯は今もごく一部のパン屋で受け継がれている。
Chapter 06

現代製パンへの歩み

明治・大正時代は、パン屋はその作業の多くを職人の技とカンだけに頼っていた。しかし、昭和に入り国産イーストが普及し始め、従来の職人制度が崩れ始め、機械化による大量生産が注目されるようになった。

第二次世界大戦後、企業整備が行われ個人経営の小さなパン屋は次第に吸収されていった。電気オーブンなどの機械を導入したパン屋は、より効率よく生産するパン作りへと変わり、昔ながらの職人気質は薄れていった。

ろばパン たからや 昭和10年頃
ろばパン(たからや)。昭和10年頃、ろばに車を引かせてパンを売っていた。
ろばパン 星野製パン 昭和10年頃
ろばパン(星野製パン)。昭和10年頃、ろばに車を引かせてパンを売っていた。
横浜大空襲後の横浜 昭和20年5月29日
横浜大空襲後の横浜。昭和20年(1945)5月29日の大空襲で、横浜は一面焼け野原になった。
パンを焼く子供
パンを焼く子供。小麦粉配給が行われると、自家製パン焼き器を使った家庭製パンが流行した。
移動ヤミパン売りに集まる主婦 昭和21年
移動ヤミパン売りに集まる主婦(昭和21年)。終戦直後、最も欠乏していたのは食べ物だった。ヤミ市には多くの人が集まった。
学校給食の様子
学校給食の様子。昭和27年、一部の都市だけで行われていた給食が全国で実施されるようになった。横浜では、早くから学給パンを配給していた。
資料

横浜パン年表

出来事 備考
1842 江川太郎左衛門、兵糧パンを試作する
1850(嘉永6) ペリー艦隊、浦賀に来航
1859(安政6) 横浜開港
1865(慶応1) クラーク、横浜居留地に横浜ベーカリー創業
1868(明治1) この頃すでに横浜に4軒の異人ベーカリーあり 明治維新
1872(明治5) 海軍、パン食を採用 新橋・横浜間の鉄道開通
1876(明治9) 横浜の内海兵吉、パン店開業
1878(明治11) 型焼きのイギリスパンが食パンの王座につく
1888(明治21) クラーク、横浜ベーカリーを打木彦太郎に譲って帰国
1889(明治22) 富田屋(内海角蔵)パン店開業
1890(明治23) 早川権太郎、打木彦太郎から独立し勢国堂開業
1894(明治27) 日清戦争
1897(明治30) この頃、アンパンほぼ全国に広がる
1904(明治37) 日露戦争
1912(大正1) 米価高騰で外米・食パン売れ行きよし
1918(大正7) 原内閣、パンの代用食運動を推進 米騒動、全国に波及
1923(大正12) 関東大震災
1930(昭和5) 欠食児童に栄養パンの給食運動を開始 山下公園開園
1932(昭和7) イースト製パン法普及 満州事変
1935(昭和10) 学校給食パン給食人員65万人突破
1941(昭和16) 第一次企業整備により横浜市パン業者166に減る 太平洋戦争
1942(昭和17) 六大都市でパン類の切符制配給開始
1943(昭和18) 第二次整備によりパン業者26社にまで減る。菓子パンは製造禁止
1945(昭和20) 主食配給は米とパンの抱き合わせとなる 横浜大空襲・敗戦
1946(昭和21) 家庭製パン流行
1953(昭和28) 横浜市学校パン協同組合設立される
1954(昭和29) 空前の大豊作でパンの需要停滞
1960(昭和35) パン消費が再び上昇。米に次ぐ主食として地歩を築く 高度経済成長はじまる

菓子パン価格対照表

明治から昭和にかけての価格推移。パンが庶民の食へと定着していった様子が読み取れる。

アンパン
年代 価格
明治7年 5厘
明治38年 1銭
大正6年 2銭
大正12年 2銭5厘
昭和13年 5銭
昭和26年 10円
昭和31年 12円
昭和43年 20円
昭和45年 25円
昭和46年 30円
昭和47年 40円
昭和49年 60円
昭和51年 70円
昭和54年 80円
ジャムパン
年代 価格
明治33年 2銭
大正3年 4銭
大正12年 5銭
昭和13年 10銭
昭和26年 10円
昭和31年 12円
昭和43年 20円
昭和45年 25円
昭和46年 30円
昭和47年 40円
昭和48年 50円
昭和49年 70円
昭和50年 80円
昭和54年 90円

横浜の歴史が育てたパン文化は、今も職人の手で受け継がれています。

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